『まあだだよ』を観た

110101

去年の年末に内田百閒・一條裕子の『阿房列車』の新刊を読んで、
『まあだだよ』が観たくなって、レンタルしたDVDをMacbookに入れたら、
その途端にDVDが読みこめなくなって(しかもDVDを排出しなくなって!)、
パソコンの修理屋さんに出した。

したら、DVDがレンタルであることを考慮して、
親切にも、Macbookよりも先に送り返してくれて、
無事に期日内に返すことが出来る。その期日の
前日の今日に、もう一台のパソコンで『まあだだよ』を観た。
(親切なのは、パソコンお直し隊です。どうもありがとう)

内田百閒が教えていた学生が、
百閒先生のために誕生日ごとに開いた摩阿陀会を描いた話で、
弟子と師匠との交流が描かれているけど、
同時に、夫婦の交流や、ペットと主人の交流、
自分と自分の老いとの交流も描かれている。

時に、お互いのことに気づいて、
慰めたり励ましたり、何とかしようとすることには、
その動機に私欲なんて含まれていないのだということを、
映画を観ていて気づかされる。

そして、それができないことの辛さを、
ノラの失踪に打ちひしがれる百閒先生の姿から見出した。
(映画では、悲しみに暮れる百閒先生の客観的な姿で描かれていたので、
次は、百閒先生の心中が書かれる『ノラや』を読みたいと思う)

エンディングの夕陽のシーンが有名だと知っていたけど、
僕がエンディングで観たのは、夕陽ではなかった。
それは、あやふやであっても明確な死後の世界のイメージで、
そこで既に死んだ人に会えなくても、自分の自我とお別れをしたとしても、
それでいいと思えてしまうようなイメージだった。
とても危険なことだけど、死が怖くなくなる時間
だった。それだけ美しかった。

movie, 2011年01月2日

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