今日は、研究者仲間の結婚式に参列。
先生達にも、周りの人たちにも、新郎新婦ともに愛されているのだと感じられて、
参列できて嬉しく思える式でした。

きっと、2人とも忙しくて、のんびりした時間を過ごすために
時間をみつけなくてはいけなかったりして、
しばらくは慌ただしい時間を過ごすことになると想像するけど、
楽しい家庭を築いて欲しいな、と、おいしい料理を食べながら思ってました。

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結婚式はタイムマシンだな、と出席する度に思う。
自分の友達が、小中・高・大・現在と時間を超えて一堂に会して、
自分の席から同時にそれを見渡せる。
そして、隣にはこれから未来の時間をともに過ごす人がいる。
そんな経験は、結婚式とお葬式だけで、しかも後者に自分は出席できないのだから、
本当に貴重な経験だと思う。

僕は結婚式を開かなかったので、その時空が歪む体験は出来ずに終わりそうだ。
でも、今日は、右手に10年以上ぶりに会う、大学時代のサークルの友達、
(その友達には、「友達って言えば、そうかもね・・・」と言われそうだけど)
左手には、現在の研究者仲間(その仲間にも(以下略))がいて、
小規模なタイムマシンだけど、とても居心地がよい時間を過ごすこと出来た。
席順を決めてくれた新婦に、変な角度からだけど、ありがとう、と言いたいです。

時空が歪んだり、タイムマシンの話が出てしまうのは、
昨日今日と、衝動的に購入してしまった2冊の本を読んでいるのが理由かもしれない。

 藤田直哉『虚構内存在 筒井康隆と<新しい《生》の次元>』
 ながいけん『第三世界の長井』

どちらの作品も、評論とギャグマンガ(?)の違いはあるけれど、
虚構をメタ視点でとらえながら、そこにギャグの要素を
含めている(ことを語る)点で、僕を懐かしくて楽しい世界に誘ってくれる。
同時に、これから先の10年は、ちょっと混沌としていても、
我々を楽しませてくれるのではないか、という希望に似た期待を感じさせる。

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books, diary, 2013年03月10日

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この本を読み終わった後に、インターネット上のレビューを読んでみると、
「自分への反省がない」や「理解できない」というように、
厳しい言葉が並んでいるものもみられた。僕も、そう思う。
読んでいて、非常に不快な箇所や、さすがにその言い回しはないだろう、
と感じる箇所が少なからずあった。

だから、この本を読むことを誰かに勧めることはしないし、
このブログの記事も、誰にも読んで欲しいと思わない。
だったら、何も書かない方がいいのだけど、それでも、書く。

加藤の起こした無差別殺人のような事件があると、
それは何故自分でなかったのか、と思う。
自分は、自分自身の人生を生きて、今の自分になった。
加藤が書いているような「社会とのつながり」もあるし、
掲示板での成りすましを心理的に攻撃するために無差別殺人をしようとは思わない。
でも、加藤と同じ人生を歩んでいたら、少なくとも、
本に書かれている加藤の母親に育てられていたとしたら、
今の自分を保っていられたか、加藤でない自分でいられたかはわからない。

心理学の言葉でなんというのかはわからないけれど、
加藤は、僕たちが自然に振る舞っていることが出来ていないし、わかっていない。
僕たちは、「何故人を殺していいか」を考えずに、
自然に人が死ぬことの重さを分かっているし、殺してはいけないという前提で生きている。
でも、加藤は(僕たちにとっての)自然なふるまいが欠落している。

構造としては、成りすましらとのトラブルから秋葉原無差別殺傷事件へとつながった、
と横並びにはならず、成りすましらとのトラブルの枠の中に秋葉原無差別殺傷事件が
完全に収まっている形になっています。

こんなことは、自分には書けない。例え、本当であったとしても、
僕には、このように自分の犯した事件を書くことは、残酷で出来ない。
でも、加藤にはそれができる。だから、この本は失礼で残酷で読者を不快にさせて傷つける。
加藤は、自分とは違うところから来た者で、別の世界の言葉を喋っている。

その加藤が、その自分の枠の中で、
どうすればこの事件を止められたかを書き残そうとしている。
92ページ以降は、つなぎが隠されたと勘違いして会社を辞めて以降、
事件に至るまでの経緯を書いているが、そこに書かれているほとんどが、
節のタイトルにあるように「止めて欲しい」ということ、
自分自身を止めるきっかけ探しについてだけど、
その時の加藤には、そのようなきっかけはなかった。

加藤は自分に「社会との接点」があれば、事件は防げたという。
社会とのつながりがあれば、事件を起こす動機があっても
「まあいいや、○○しよう」と考えて、問題を回避できる。
これが、加藤の導き出した解から得られた教訓だった。

「私はどうしてくるべきだったのか」という節、で加藤は、
「社会との接点」の作り方をハウツー本のように書いている。
・ 昔からの友人に、「定期便」のように小ネタをおくってみる。
・ ラーメン屋を開拓して、月に一度、みんなをつれていってみる。
・ ボランティアをする。
・ サークルや教室に通う。昔やっていた囲碁をしてみる。
・ コンビニやスーパーでなく、個人商店でものを買ってみる。
・ アーティストや企業など、誰かの信者になってみる。
・ キャバクラにいってみる。
・ ペットを飼う。ウサギを飼ってみる。
そして、実現はできないだろうけど、700万円ためて自分のゲームセンターを経営する。
そもそも、1つの掲示板ではなく、複数のSNSやコミュニティにはいっていればよかった。

自分に被害者と関わりがあったら、
こんなものを読ませられたら、加藤を殺したいと確実に思う。
ほとんどの読者も同様に「ふざけるな!」と思っているだろう。

でも、一方で、これを読んで救われる人も、
ごく少数かもしれないがいる筈だと思った。
その勘が当たっていれば、そういう読者に対しては、
この本で書かれている当たり前過ぎる対処法が救いになる可能性はある。

だけど、最後に二言言う。
加藤は、十分に社会とのつながりはあったと思う。
事件があった後に紹介される加藤の友人も、
つなぎの事件の時につなぎを届けた社員も、加藤のことを他人とは思っていない。
それを加藤がつながりであると感じられなかったのだから、加藤の書いた方法を実践しても、
それが社会とのつながりであることに気づけないことも十分にあり得る。

もう一つ。加藤の方法は、その瞬間はつなぎとめる効力があっても、
その次につなぎとめるとは限らない。
そうすると、問題はやはり加藤が懲役刑よりも死刑をましと思ったことや、
成りすましを攻撃するために事件を起こすという発想したことにあると言わざるを得ない。

それは、あらゆる意味で、残酷すぎる。
加藤のいう社会とのつながり自体に、この2つの問題を解消する力があれば、と願う。
人は、自分を作り上げてきたものを打ち破って、別の自分になることができるのだろうか。
この本の言い回しが、それが不可能であることを物語っているのではないだろうか。

books, 2012年08月18日

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自分が買う本で、かつ世間的にもとてもよく売れている本の
数少ない例が、村上春樹さんの作品だ。
これも、その1冊。

この前の『1Q84』を読んだ時に、
このようなタイプの小説が日本で最も読まれていることに、
とても不思議に感じたのを覚えている。作品の前半は、
確かに謎解きの要素もあるしサスペンス要素もあるしで大衆的だけど、
伏線は明確に回収されないし、話も段々抽象的で概念的になっていく。
作者の意志はともかく、本格的に読み込もうとすれば、
リテラシーや多くの知識が必要になる作品だったと思う
(というのは、僕は本格的に読み込まなかったので)。

この小澤征爾さんとの1冊も、やはり実際にベストセラーになるのだろうけど、
読者の中に2人の話すクラシック音楽に関する知識を、
「ふむふむそうだよな」とシンパシーを持って読める人は
そんなに多くないような気がする。いや、ほとんどいないんじゃないか。

どのページを開いても、その例はみつかる。
例えば194ページで村上さんが「ブルーノ・ワルターが亡命する直前に、
一九三八年にウィーンでやった九番も聴いたけど、
ワルターもメンゲルベルクもとにかく音が古い、というのが印象です」
と話しているけど、これを読んで「確かに音が古いよなー」と思えるのは、
ほんの一握りである気がする。それとも、僕は極端にクラシック音楽の知識が乏しいのか。

それでも読ませるのが、村上春樹さんの文章のパワーであるように思う。
ジャズの知識にしてもクラシック音楽の知識にしても、
村上さんの中に含まれていた物語にしても、
それを語る言葉によって、人の心をつかみ、「知ってみたい」と思わせる。
それは、アマチュアの物書きにはできない技術なのではないだろうか。

講義などの仕事で、自分の調べたことや過去に誰かが調べたことを紹介する時に、
自分自身がそれらから得た知識そのものや感動を伝えられず、もどかしい思いをすることが多い。
だからこそ、この1冊の2人の言葉を読んだ後の今、
自分の文章を書く力を鍛え直さなくてはいけないと、改めて思っている。

books, 2011年12月4日

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数日前に読了。
加藤文太郎という実在の登山家をモデルにした新田次郎の長編小説。

前半は加藤が登山の単独行を始め、有名になっていく過程と、
その中で、いかに加藤が独りで自尊心を持っていたか
(それが孤高ってことですね)、その生活を描いている。
後半は、家族ができて、人当たりもよくなり、
山から遠ざかっていく生活と、宮村との登山が描かれる。
(終盤の宮村のうざったい感じを観察するだけでも、この本はお勧めです)

若い時は、失うものがなく、周りが見えていないために、
どんどん突き進んで、それが成功に結びつくことがある。
でも、世界と自分との大小を知ってしまったり守るものを持つと、失敗するようになる。
そんな状態から、再び成功を取り戻す物語も魅力的だけれど、
冬山の登山の場合、一度の失敗で死を迎えることになってしまった。

家族を持つことが加藤の登山の失敗に結びつくのだろう、
と考えながら読んでいた僕は、それが、
加藤を生還させようとする方向にも、加藤に死を近づけるようにも、
両方に作用しているのが新田さんの優しさのように読めた。
(実際に、そういうものなのだろうな、と思ったり思わなかったり)

2つの相反するけど一緒にあるものとして、家族と同様に
冬山もそう描かれていた。登山したものだけが得られる
美しさの描写と、容赦のない荒天の厳しさ。
怖いけど登ってみたい、太ってしまうけどつい食べちゃう、
2つ以上の感情を同時に持つと、いい小説を読んだな、と思ってしまうのだ。

あまり、関係ないですが、昨日のNHKのエベレストの特集は、
普段は取り上げない、重い機材を背負って撮影するテレビカメラマンに焦点をあてて、とてもよかったです。
でも、そのテレビカメラマンを撮影していたカメラマンは…。

books, 2011年08月15日

厄年の峠を越えようとして私は人並みに過去の半生涯を振り返って見ている。
もう昼過ぎた午後の太陽の光に照らされた過去を眺めている、
そして人並みに愧じたり悔やんだり惜しんだりしている。
「有った事は有ったのだ」と幾百万人の繰返した言葉をさらに繰返している。

過去というものは本当にどうする事もできないものだろうか。

私の過去を自分だけは知っていると思っていたが、それは嘘らしい。
現在を知らない私に過去が分かるはずはない。
原因があって結果があると思っていたが、それも誤りらしい。
結果が起らなくてどこに原因があるだろう。
重力があって天体が運行して林檎が落ちるとばかり
思っていたがこれは逆さまであった。英国の田舎で
ある一つの林檎が落ちてから後に万有引力が生まれたのであった。
その引力がつい近頃になってドイツのあるユダヤ人の鉛筆の先で新しく改造された。

過去を定めるものは現在であって、現在を定めるものが未来ではあるまいか。

それともまた現在で未来を支配する事が出来るものだろうか。

これは私には分からない、おそらく誰にも分からないかもしれない。

books, 2011年06月14日